若林正恭著『社会人大学人見知り学部 卒業見込』を読んで

あるとき、アマゾンでオードリーの若林さんの「社会人大学人見知り学部 卒業見込」という本を知りました。めちゃめちゃレビューがいいので気になっていたのですが、なんとなく読む機会を逃してました。

先日たまたまテレビをつけたら若林さんがMCをやっている「激レアさんを連れてきた。」が放映されていました。なぜか「あの本、読もう」と急に思い読んでみたところ、めちゃめちゃよかった。今日は感想をまとめてみます。

あらすじをざっくりとまとめると、こんな感じでしょうか。

2008年12月、M1グランプリで2位になってからオードリーの生活は激変する。大学を卒業後、お笑い芸人を目指し今の事務所に入った著者にとって、そのときがはじめて自分が社会に参加しているという感覚だった。30歳の頃だった。それゆえ「社会」のなかの出来事は、著者にとって驚きの連続だった。本は雑誌「ダ・ヴィンチ」の連載をまとめたもので、著者が「社会人2年目」のときから始まっている。本では社会人2年目、3年目、4年目、真社会人と、著者の気持ち・考え方の変化、社会との関わり方の変化を追うことができる。

「”確か”なもの」と「小さなノック」

著者が社会人3年目のとき、言葉と感情を選ぶようになったという始まりのエピソードがあります。円滑に社会と渡り歩くために、対外的な反応ばかりに気を取られ、自分の本心はどうでもよくなっていき、自分の素の気持ちがわからなくなっていったそうです。そんなとき、その1年前から始めたボクシングのスパーリングの練習のときのこと。左のボディーブローが、右のわき腹にもろに入ったそうです。苦しい、ムカつく。そんな風に感じながら立ち上がろうとしたとき、その気持ちが”確かな”ものだと気づき、こんな風に思ったそうです。

(痛いのは嫌だけど”確か”なものっていいよね!)

(嘘偽りのない”自分”お久しぶりです!)

・・・・・

本の感想をうなって考えていると、ある瞬間で「あっ、この話と同じだ」と思いました。本に書いてある話は、この話のようにみんな「確かなもの」だと感じたのです。そして確かなものだから、自分の心の扉を何回もコンコンとノックしてきます。

心が揺さぶられた文はいくつもあったのですが、そのなかで一番、影響を受けたのは次の文章でした。

 これまでぼくは起きもしないことを想像して恐怖し、目の前の楽しさや没頭を疎かにしてきたのではないか?
深夜、部屋の隅で悩んでいる過去の自分に言ってやりたい。そのネガティブの穴の底に答えがあると思ってんだろうけど、20年調査した結果、それただの穴だよ。地上に出て没頭しなさい。

私は若林さんの性格と似ているところがあって、この描写を読んだときはハッとしました。自己肯定感が低くなったとき、何か新しいことに挑戦しようとして不安なとき、一気に底なしの沼にはまりそうになります。本にはこの話以外にも、「ああ、わかるなあ」から「ああ、聞きたくないなあ」まで、たぶんネガティブになりがちな人には「あーわかる」と納得できる話であふれている気がします。

でも、上の話もそうであるように、若林さんの話はみんな「後ろ」ではなく「前へ」と進んでいきます。目の前の現実、自分と対峙し、自分のなかで試行錯誤を繰り返しながら、少しずつ進んでいく様子が本にはまとめられています。

ちなみに、上に引用したネガティブの穴の底のエッセイの最後の文は、「ネガティブを潰すのはポジティブではない。没頭だ」です。今まで読んだどんな本でも見たことのない文で、でも著者の言いたいこと、感じたことが感じ取れる文章でした。そして言っていることに納得もできる、だから心を打つ。本にはそんな文章がそこここにありました。

本を読んだあと、本に書かれている言葉をよく思い出します。特に引用した箇所は、ネガティブになりそうなとき「その穴を掘っても何もないよ」と、どこからともなくフッと浮かんできます(笑)。

人にもよるかもしれませんが、いわゆる自己啓発の本を読んで自己改革をしようとしているときより、この本の方がガツンと胸に刺さりました。自己啓発の本はどこか「ふわり」と肩をなでていくようなところがあるけれども、この本には「ああ、わかる」という実感がともなうからかもしれません。そして「ああ、わかる」と思えた人がどう思い、何をしたのかは、自己啓発の本を読むよりよっぽどリアルで、自分のいろんなことにダメだと思えたり、自分を前向きに変えていきたいという思いにつながったりしました。読んでよかった1冊でした。

今は著者の2冊目の著作、「表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬」を図書館で予約して読める日を待っているところです。いつになるのかなあ…。

「こうやって、考える」を読んで

先日、図書館で背表紙借りした本がありました。真っ白の背表紙に本のタイトルだけシンプルに「こうやって、考える」と書いてあります。本を手に取り表紙を見ると、これもまたいい感じです。

すぐ借りてしまいました。著者は知りませんでした。「外山滋比古・・・。日本の人なのかな? なんて読むんだろう・・・」からのスタートでした。でも、この本が面白かった。今日は読んでみた感想を書いてみます。

後で調べてみると、東大生・京大生に支持されている「思考の整理学」という本で有名な方だということを知りました。評論家、エッセイストとして、また過去には大学で教鞭を執られていて、現在94歳という。すごい!

本は、著者の21冊の著作のなかから、発想力や思考力を磨くヒントになる言葉を抜粋してまとめた箴言集です。なので1ページに「メモの習慣を身につける」という見出しがあり、その横に短い引用が書いてあるシンプルなつくりです。発想力の鍛え方、考える過程についてのヒントから、日々の生活や読書、おしゃべりのなかにある発想力、思考力を磨くヒントなどまで、合計で150個のヒントがまとめられています。

少しずつしみこんでいく文章

自分の日常生活において、はじめはなれないことでも、何度も繰り返すうちに自分なりに「こうやったらうまくいくんではないか」と小さな知恵を見いだすことがあります。この本に書いてあることは、著者バージョンの「知恵」がつまったものだと感じました。

私にとって、それらの文章は自分のなかに少しずつしみこんでいくようなもののように感じられました。その理由としては、自分でも気づいたことが書いてあったり、直感的に「そうかもしれない」「ほんとうだ」と思うことがたくさん書いてあるからだと思います。自分が頭のなかでモヤモヤッと破片で感じていたこと、困ったなあと思っていたことの答えやヒントのようなものが、きれいな整えられた文章で並んでいる、そんなイメージの言葉が多いです。

たとえば、書くことについて「書く衝動を逃さない」と始め、そのあとはこんな風に続いています。「本を読みたいという気持ちはときどき起こるが、ものを書きたいという衝動はめったにあるものではない。書くのは相当”不自然”なことらしい」。「確かにそれはそうかもしれない」と、頭のメモ帳にインプットしました。本を何冊も書いている人でもこんな風に思うのかと、少し励まされもしながら、言葉を吸収しました。

うなずける言葉が多いと、著者の言っていることを追うようにしてついていき、わからなくても理解しようとします。すると、今まで自分にはまったくなじみのない発想でも、「そうなのかな、試してみよう」と自分のなかに少しずつ著者の発想がしみこんでくる感覚がありました。

たとえば、今こうやって本の感想を書くようになりましたが、これは最終的にはこの本がきっかけでした。著者は本の感想を書くことをすすめ、こう書いています。「本などもただ読みっ放しにしないで、あと、かならず感想を書く習慣をつけるようにしたい。これがどんなに我々の精神を大きく豊かにしてくれるか、はかり知れない」。理由はこまかく語られていないので、何がどうよいのかはわかりません。だけど、この人が言っているなら書こうと思い腰をあげて書き始めました。

言葉の矢は前から後ろから、上から下から斜めからと、様々な方向から飛んでくるような感覚があります。だからあるときには、「あ、この悪い例はまさに自分だ」と、矢がグサッと刺さることもあります。そして多くは語られないということもあり、正直、今読んでもいまいち内容を理解できないところがあるのも事実です。

言葉だけだとわかりにくいので、「前から後ろから・・・」の矢を、全7章ある1章ずつの見出しから、「わからない・・・」「面白い発想だなと」思ったところを抜粋してみます。

・編集視点で考える

・”ことわざ”をつくる

・知識は「死んだもの」と考える

・人生を二毛作化する

・(本に)影響を受けすぎない

・あえてゆっくり話す

・散歩をスポーツに

見出しから意味が想像できるもの、かつ自分がまだ納得できていないことを多く選んだので、少し特異な見出しが多いと思います。でも、前から後ろからのニュアンスが伝わるのではないかと思います。

何か困ったとき、パラパラっとこの本を思い出してめくりたい、そんな風に思いました。悩んだときは、一点に視点が集中しがちです。でもそんなときに、前から後ろから斜めから飛び込んでくる矢を受けて、「ああ、そんな発想あったんだ」と思い返したいと感じました。きっと悩むときで、響く言葉が違うと思います。ひょっとしたら、今わからないところはその頃には普通にわかるようになっているかもしれない。それもやはりこの本の魅力だと思います。少しずつ自分に本の内容がしみこんでくるのです。

違う視点からのアイデアがほしい人、自己啓発の本を読みたいけどいわゆる自己啓発の本とは違うアプローチをという人にとって、この本はパラパラめくると面白い本だと感じました。普通に前から読むというよりは、ちょっと時間が空いたときにパラッパラッとめくったり、気になった項目を飛ばし読みしていくとより本の持ち味が引き立つような気がします。よかったら読んでみてください。

買ってよかったもの。CELECの「GAV-3/S ニューギヤマンVポット」

長い間、なんとなくティーポットを探していました。でも、探せども探せども「これだ!」というものには出あえませんでした。あきらめかけていたとき、たまたまカフェでCELECのポットに出あいました。一目惚れで、買ってしまいました。

最近はブログを書いているとき、ティーポットに飲み物を入れそばに置いて飲みながら書いています。先日、ティーポットを見ながら、やっぱりいいなあ~と思いました。

そこで今日は、商品レビューをかね、「ティーポットを探している人、これいいですよ!」という思いをかねて、CELECのポットについて書いてみようと思います。

まず私が使っているものは、「GAV-3/S ニューギヤマンVポット クリア(陶器蓋)」というものです。商品にはGAV-2/Cというものもあります。3/Sの満水容量が480mlに対して、GAV-2/Cの容量は300mlということです。

以下は、容量480mlのGAV-3/Sについてのレビューです。自分がよい、悪いと感じる順に書いていきます。

メリット

1.デザインがいい!

極論を言うと、これだけの理由で買いました…。はじめて見た人はたぶん、この白いふたにおどろいたのではないでしょうか。私もおどろきました。カフェで見たときは、ふたが透明だったのです!

仕様が2つあるようです。陶器の白いふたと、樹脂でできている透明のふた。できれば自然な素材がいいので、白いふたにしました。はじめ買う前は、なんでふただけ白いんだろう…と悩みましたが、気づけばいまは慣れて気になりません。

2.丈夫

測ってみるとガラスの厚さは全体的に4㎜程度あります。家にもともとティーポットがあったので、そのティーポットの厚みを測ってみました。お湯をやかんからポットに注ぐときの注ぎ口で2㎜で、下にいくと少し薄くなっているように感じます。

それぞれの重量も測ってみると、家のポットがCELECのポットよりもう少し容量が大きいけれど、230g。対してCELECはドーンと620g。厚さというか丈夫さが、なんとなく伝わればいいのですが…。

3.目盛りがある

写真だと見えづらいですが、480mlのティーポットには、150mlから450mlまで目盛りがふってあります。紅茶をいれるとき、いつもなんとなーく淹れていたのでこれはありがたいです。

4.なんでも合う

紅茶でもハーブティーでもいいし、CELECのオンラインショップをのぞいてみると、出汁とりもすすめられていました。

コーヒーはドリッパーのサイズによるので、手放しでおすすめはできないです。家にある3つのドリッパーと合わせてみたら、ぴったりマッチするものはなかったです。下の写真のいつも使っているドリッパーも、うまくいけばこけることなく淹れられますが、ちょっとよそ見をしたりすると、バランスを崩してドリッパーが傾いてしまいます。でも、目盛りもあって便利だし、おしゃれだしと私は使ってしまっています。

5.洗うときのストレスがない

写真の通り、注ぎ口が閉じていないし、やかんから湯を入れる口も広い。しかも厚手。薄手のティーポットは繊細でおしゃれだけど、その分扱いが難しかったりします。家にあるティーポットは、ふたの取っ手もとれちゃったし、注ぎ口もかけてしまっている。悲しい…。とにかく厚いから、そういう悲しみのストレスがないのがうれしいです。

6.耐熱ガラス

私自身はレンジで使ったことがないけど、きっとそれはありがたい! という人も多いと思います。

というのが、しばらく使ってきて感じたよさです。ティーポットは、今年買ったお気に入りの商品です。ただ、メリットが転じて気になる点にもなっているのも事実です。そこで、感じているデメリットもまとめてみます。

デメリット

1.重い

先ほど触れた通り、容量480mlのものは重量は620g。家にもともとあった230gと比べると、2.5倍以上です。丈夫な分、手にずっしりきます。

東急ハンズのオンラインショップで調べてみると、ビールの中ジョッキがエビス400mlで640g、アサヒ435mlで660g、キリン435mlで680gだそうです。なので、空のティーポットはエビスの中ジョッキくらい(あんまりエビスの中ジョッキ見ない気もしますが…)、液体を入れればその分重たくなっていきます。例えが変ですが、これが重さの一番イメージがわきやすいと思ったので、許してください。

2.容量480mlのものについては、やけに大きく感じる

家にもともとあったティーポットの方が、容量は480mlより大きいです。サイズ感としては、本体の高さはCELECのほうが高いけれど、横幅は家にあったものの方が幅が広い感じです。だけど、CELECのティーポットの方が大きさを意識してしまいます。たぶん、ポット自体の厚みや、どっしりとした重量感にあるのかもしれません。

3.しいていうと、熱湯を注ぐときに目盛りがくもって、湯量がわからなくなる

でも、目盛りがあるだけで感謝! なので、あくまで「しいていうと」程度です。

感じ方の変化

カフェでティーポットを見ただいぶあと、商品はネットで注文しました。実はそのとき、サイズ表記をしっかり見ていませんでした。というより、ティーポットに複数サイズがあるとは思わなかったから、考えもしなかったのですが…。届いたものは、カフェで見たのよりだいぶ大きかったです。そう、カフェで見たのは容量300mlのものだったのです。

だから、正直はじめ商品を受けとったときは、びっくりしました。「でかっ!」と。そして手に持ったら「重っ!」と。使い始めてからも、コーヒーや紅茶を淹れるのは多くても300mlほど。だから、使い始めてからもやっぱり重さが気になってしまいました。でもそれはたぶん、私が見たのと違うという勘違いも影響しているのでしょうが…。

でもここ数日はこんな風に、カフェオレを大容量で作り、ブログを書きながら飲むという方法を見つけました。

しっかりティーポット、ミルクを温めて作れば案外冷めず、写真のように小さなカップでチビチビ飲めば、しばらくはあったかいまま飲めます。大は小を兼ねるということで、今は大きい容量を買ってよかったなあ、結果オーライだったなあと思っています。

さいごに

たまたま行ったカフェ以外で、実物を見たことがありません。だから手放しでいいですよ! とは言いがたいです。なぜなら、ものを使うときは、重さやもののまとっている雰囲気も重要なポイントになると思うからです。正直私が持っている480ml容量に関しては、売り場で見つけたとしても、即決で買うかどうかはわかりません。上の話のように、使い始めてからも重さがだいぶ気になったからです。

でも今となっては、お気に入りで大切にしているものの一つです。なので、今回は投稿してみました。もしティーポット欲しいんだよなあと思っている人は、よかったらネットで見てみてください~。

「仕事は楽しいかね?」を読んでから、ブログを1週間続けて感じること

「仕事は楽しいかね?」を読んでから、ブログを始め1週間が経ちました。たった1週間ですが、いろいろ変わったなあと感じています。

よく反省し、なにかと気づくことが増え、行動が変わり始めました。今日はせっかくなので、具体的にどんな風に変わったのかを書いてみようと思います。

Evernoteの一言日記

先日、このブログをタブレットで書くとき用に、Evernoteをダウンロードしました。新しいアプリを、もっと使ってみたかったのでしょう。なんとなく書く分野について感じたことを毎日、短く書き残すようになりました。

もちろん公表するつもりはなかったので、かなり恥ずかしい内容です。でも一番変化がわかるので、一部をのせてみます。

ブログ開始から2日目 8/19 自分に、自分の文にイライラしてくる。

3日目 8/20 言葉があふれてくるようになった。書けた。ただそれだけで気持ちがいい。

4日目 8/21 これなら書けるかもがでてきはじめた。続けるにつれてほんの少しの自信になってきた。(書くのが)不安で不安で怖くて怖くて仕方がない。

5日目 8/22 人に読んでもらう文がへた。だれに向かってかいているのかわからない。

6日目 8/23 できた。うれしいなあ。でもやっぱり日記調になっちゃう。

7日目 8/24 取りかかる前は、めちゃくちゃいやだけど、一度取り組むと案外熱中する。

8日目 8/25 やっぱり書くときは、よく考える。一文一文が長くて読みづらい。

だいぶ恥ずかしいですね…。でもとりあえず、どう変わっていったのか、先に進みます。

反省するようになった

これについては、説明はいらないかと…。反省ばかりするようになりました。でも、不思議なことにいやじゃない。実はちょっと前まで、誰も見ない独り言日記ブログを数か月間毎日続けていたのですが、その頃より全然モチベーションが高いです。なんでだろうと考えていたのですが、それが次のことに続く気がします。

気づくことが増えた、行動が変わった

毎日続けてきて、次のような変化が生まれた気がします。

今)このトピック書いたら面白いかも→試す→読みづらくて反省する→でも毎日続けることで、感じることがちょっとずつ変わってくる→自分が変わっていることも感じる→楽しい?

それに対して昔は、毎日書くことを決まりにしていたのですが、こんな風に感じていました。

昔)書かなきゃ→そのうち「とにかく書けばいい思考」になる→積極的に「こうした方がいい」「ああした方がいい」も考えない→書くことが目的になってしまっている→つまらない、やめようかなあ…

今回ブログを始めたとき、毎日書き続けると決めてはいませんでした。もちろん、そうなればいいけどなという思いはありましたが。そんな揺れる思いのなか、2日目に頑張って書いたら、3日目からは自然と「書かないと」と書く流れになっていきました。

今回、この投稿を書くにあたって、漫画版の本を再読しました。すると、「ああ、なんとなく私が感じていることを言葉にするとそうなるんだ」という箇所を何か所も見つけました。そのなかで一番、今回の変化にマッチした言葉は2つありました。一つがこちら。

「いろいろ試し、起きている偶然に気がつき、新しいことを始めてみると———そこで得られる楽しさは格別なものです」

「偶然」というのは、本では失敗にも転じるけれど、うまくすくいあげて活かされたもの、みたいなニュアンスで使われています。

先日から数日、富士登山前に荷物の準備など、私自身が困ったことについての投稿しています。事前にしっかりみっちり調べれば困らなかったのでしょうが、登山前々日にパッキングをしながら富士山事情をしっかり調べ始め、情報が見つからず四苦八苦していました。そのときは夜の11時に、なんで前日になる前にもっとちゃんと調べなかったんだろうと途方に暮れていたのですが、今はあの経験が活きました。先日散歩をしているときに、「あ、あのわからなかったことについて書いてみたらいいかも」と思い、翌日には書いてみました。

そうやって、思う→行動のサイクルが早く、なにか波に乗れているのか、この言葉もしっくりきました。

「試すこと」は繰り返すたびに「不安」よりも「楽しみ」のほうが大きくなっていきます。

はじめの一言日記の通り、最初は「(書くのが)不安で不安で怖くて怖くて仕方がな」かったです。気持ち悪くなってました。でも、繰り返すことによって慣れてきて、恐怖以外の面も見えてくるようになり、試すことを楽しみ始めている気がします。

私が一番驚いていることは、「書き続けるという点では同じことなのに」ということです。数か月にわたって書き続けていたので、書き続けること自体には慣れています。でも感じることも、行動も昔と今では全然違います。そこで考えさせられたのが、正のスパイラルを起こさないと、いい流れは生まれないということでした。昔の「書く」は完全に負のスパイラルをグルグルしていたなあと。

もし1週間経っての「仕事は楽しいかね?」に対する気づきを加えるとしたら、「昨日とは違う自分になる」ことを『楽しむ』ということなのかもしれません。

昔、この本は表紙とタイトルだけで本を読むのを避けていました。でも今や、だいぶ影響されて、漫画だけじゃなくて本も読んでみようかと思い始めています。人ってきっかけ次第で案外変わることができるものなんですね。

富士登山前に話題になることを、登ってみて私なりに考えてみた。

登山靴。登山前のトレーニング。高山病の心配。

登山前によく話題に上る問題です。いずれも入念に準備するに超したことはないでしょう。でも私は結局、靴は買わず、トレーニングも大してせず、高山病にもなりました。

そこで今日は、した方がいいことをしなかった人はどうなったのか、なぜ高山病になったのか、という視点から今日は投稿してみたいと思います(高山病は予想ですが)。主に残念な結果になった失敗談です。

あくまで個人の体験談なので、「ふーん、そんな人もいたんだ」程度の軽い気持ちで読んでいただけたらさいわいです。

登山靴

富士登山は、私にとって初の本格登山でした。本格的な登山だし靴も買おうかとも思ったのですが「せっかく買っても、使わなかったらもったいないなあ」と買いませんでした。それと、初心者用のクッション性のあるマラソンシューズは持っていたので、普段靴よりは丈夫だしいいやと買いませんでした。

結果は、底がだいぶすり減りました。10キロのマラソン大会に数回出たり、半年以上、歩いたり走ったりトレーニングで使っていたため、靴はそこそこすり減っていました。でも、「まあ、まだあと少しはなんとかなるか」くらいの状態でした。それが今回帰ってきてからみると、「もうそろそろ買い替えたほうがいいかも」くらいの状態になりました。

登山靴でないデメリットは、他にもありました。一緒に行った友人の登山靴を見るに、登山靴は足のホールド性が長けていたように見えます。マラソンシューズでは、下りのときが特に、足が靴のなかで前後に動いてしまって安定性に欠けました。また、マラソンシューズは特にかもしれませんが、靴の作りが薄いので、体重が前後にかかり破れてしまわないか不安にすらなりました。

結論から言うと、登山靴じゃなくても登れました。でも、マラソンシューズは運動用なので、タウンシューズよりはよさがありますが、それでも弱さを感じました。ちなみにタウンシューズで登っている外国人と数人の日本人は見ましたが、やはり大半は登山靴だったように思います。私は、マラソンシューズをすぐに新調しなきゃいけない事態になるのなら、ときどき友達と山に登るので、登山靴を買っとけばよかったと後悔しました。

この失敗談から言えることは、普段靴で行くなら底のへりは覚悟してください! でしょうか…。私はお気に入りの靴で、そこまですり減ることを想定していなかったので、かなりへこみました…。買わなくてもレンタルするのもありですし、もし登山やるかもなあ~とちょっとでも思うところがあるのなら、買うのもありかもしれません。

登山前のトレーニング

前述の通り、10キロのマラソンレースに時々出場していました。そのため一時期は毎日歩いたり、数日に1回走ったりしていました。しかし、登山の4か月前から足首を痛め、登山を決めてから数か月の間は、数日に一遍30分歩く程度しか運動はしていませんでした。それでも、それまでつけた筋力が多少でも残っていたのか、歩ききることはできました。

けれど、下り切ったときは心底疲弊してました。登りは全然大丈夫だったのですが、下りが本当に苦痛でした。太もも? ふくらはぎ? が長時間下り続けること、長時間太もも・ふくらはぎに負荷がかかり続けることに慣れていなかった気がします。その苦手な時間が何時間も続き、日差しもギラギラと降り注ぎ、少しずつ体をむしばんでいった気がします。

そのため今もう一度登るならば、下りの負荷に耐えられるようにスクワットなどのトレーニングを強化すると思います。また、歩き続けることになれるために、日々の生活に歩く要素をちょこっとずつ増やしていくと思います。私は、練習登山や、長距離を歩けというのはハードルが高いからどうしようかな~と思っていたら、登山当日になってしまいました。今ではそうじゃなくて、日々の生活で筋力、心拍数を上げるトレーニングを重視すればよかったのだなあと思います。

高山病

実は高山病にならないように、結構気を使いました。5合目に着いてから1時間以上は体を慣らし、宿も7合目の下から2番目の宿にしました。休憩もこまめにとりましたし、休憩のたび水もちょこちょこ飲みました。

それでも高山病になった理由は、たぶん頂上目前で急にペースを上げて登ったことにあると思っています。空が明るんできたのは、頂上まであと少しというところでした。道はそれまでずっと渋滞していたのですが、「あと少しでご来光」というときから、多くの人がご来光を待つために登るのをやめ、道のわきに座り始めました。そのとき、できるだけ上のほうでご来光を見るために、今までの倍以上のスピードで登り始めてしまったのです。

すぐには異常はなかったのですが、頂上についたときくらいから、体の調子が悪くなり始めました。頭が痛くなり、なんだか調子がよくない。それでも意地でお鉢巡りはしたのですが、その頃には調子はもっと悪くなりました。はじめは高山病だと思わなかったのですが、今思えば完全に高山病でした。頂上が見えても油断は禁物、それだけが言えることです。それまでが快調だっただけに、ほんとうに悔しい思いをしました。

さいごに

だいぶん情けない話を書いてきました。でも、したほうがいいことの情報はどこでも見つかるけれど、失敗談は案外ないなあと思い今回は書いてみました。特に高山病のところは、同じ思いをする人が生まれてほしくないです。お鉢巡りなんて、途中からずっと「早く終わってくれよ」と思っていたので…。

私の富士山にまつわる投稿はすべて、不信による疑問が原点で、たいていすべて「ああ書いてある通りにすればよかった」と思っている気がします。今日もそんな失敗談を今回も書いてみました。読んでくださってありがとうございます。

富士登山前の「?」を振り返る 時間編

こんにちは。今回は前回に引き続き、富士登山での時間の話について書いてみます。

投稿をしようと思った理由は、私自身が登山前、かかる時間が読めずに困ったからです。吉田ルートを選択し、新宿から富士スバルライン5合目に向かう計画で、行きの計画は良かったのですが帰りのほうが困りました。

旅程は一泊二日で、泊まった山小屋は全山小屋の下から二番目。2日目の負担が大きく、夕方までに戻ってこられるのか不安になったのです。コースタイム上ではもちろん間に合いそうだけど、休憩を含んだ時間のイメージが初の本格登山だけにわいてきませんでした。登山道の雰囲気についても、本を読んでも未知の世界過ぎて全然想像がつきませんでした。

そこで今日は過去の自分の「?」を踏まえながら、実際にかかった登山時間を、山の雰囲気の写真、実際に起こったことを交えながら書いてみます。

実際にかかった登山時間

先にごめんなさい!
ところどころあいまいな時刻表記があります。携帯で写真を撮影した時間をもとに書き起こしたのですが、場所によっては写真を撮る気力がありませんでした…。写真の時刻と記憶をつなぎ合わせたため、時間に幅があるところが一部あります。また地点も微妙に中途半端なところが多く、下りにいたっては疲れ果ててしまって、下山開始時刻と5合目到着時刻のみです…。

11:40頃 富士山5合目着(ごはん、お参り、身体をならす)

13:45 5合目出発
はじめは平たい広い道で、途中からはゴロゴロとした岩を登っていきます。

14:27 6合目着

15:33 花小屋着(休憩)
写真のような、ジャリジャリした感じの道が続きます。金曜日に登りましたが、人はそこそこいました。右の写真は花小屋から見上げた山小屋の数々。

15:45頃 7合目日の出館着(16:30夕ご飯)
右はいろり。すでにちょっと肌寒い。

17:30~18:00頃 就寝

翌日
0:39 日の出館出発
7合目はひたすらごつごつした道、8合目からははじめのようなジャリジャリした道に。

2:56 8合目元祖室着
3時でこの時点の場合、残りのコースタイムはあと1時間半ほど。ご来光頂上で見えるんじゃないかと期待を抱きましたが甘かった…。

登るにしたがって道も混雑し始め、道幅も狭くなっていきます。

4:12 左)空が明るくなり始める、右)4:50ご来光
明るみ始めたころには登山道は渋滞。

余談で失敗した話:明るみ始めるにつれ、ご来光を待つ人がわきに座り込みました。できるだけ頂上でご来光を見たいと思い、ここから急ぎ気味で数分間登り始めました。それからだんだん調子が悪くなり、高山病になったことに気づきます。本には「頂上が見えても油断しないように」と書いてあったのですが、本当にその通りでした。トホホ…。

5:30~6:00 頂上着

6:30前後~9:00前頃 お鉢巡り (出発前15分仮眠)

9:40 頂上出発

14:08 5合目着

15:00 新宿行きバス乗車

コースタイム・実際かかった時間の比較

私たちの場合は、どの地点でもおおよそ±30分程度でした。

コースタイムは「登れる富士山」記載時間を参照。本では花小屋までの所要時間で計算されているため、花小屋についた時間で計算します。

先に注意が必要な点
正直、1日目の5合目~7合目区間のみが両者が同じ条件のもとでの比較です。2日目の7合目~頂上区間は、私たちの時間には渋滞込みの時間です。お鉢巡りも高山病の症状を感じながらの歩行で、かなりコンディションが悪いなかでの比較になります。条件がよかったら、いずれももう少し早いと思います。

1日目 5合目~7合目花小屋
コースタイム2時間10分 | 実際1時間45分(差-25分)

2日目 7合目~頂上
コースタイム4時間15分 | 実際4時間50分~5時間20分(差+35分~1時間5分)

頂上~お鉢巡り
コースタイム1時間20分 | 実際2時間ほど(差+40分ほど)

頂上~下山
コースタイム3時間50分 | 実際4時間30分(差+40分)

下山時間について補足
下りにかかった時間は、人によってバラバラかなと感じました。というのは、私は下りがかなりつらかったです。対して一緒に登った友達は「コツをつかんだ」と言って、滑りながら私の二倍くらいの速度で下り、何度も待ってもらいました。実際、周りを見ても友人同様速度の速い人と、私のようにゆったり歩いている人にわかれていたように思います。もし友達が1人で下ったら、あと1時間は早かったんじゃないかと感じています。

登山計画を立てるとき参考になった本

「富士山チャレンジサポートブック」
この本のいい点は、何人もの個人の体験談が掲載されていることです。各登山道ごとに、旅程別(日帰り、一泊二日など)の時間記録、お鉢巡りのあるなしなどの記録がまとめられています。他にも持っていってよかったものや、「足が痛みすぎて馬に乗った」など、経験談として参考にできる話が多かったです。

私は図書館で登るかなり前に借りたのですが、実際に細かい旅程を立てるときにそばになく困りました。もう一回借りればこんなに困らなかったかな…と思います。

さいごに

普段山登りもしない一般人の登山時間を、一つのサンプルとして書き起こしてみました。ところどころ、微妙な地点、幅のある時間表記にはなっていますが、何らかの参考情報になればさいわいです。

最後の最後に。初・本格登山ということで、高山病にはかなり警戒し、宿もかなり下のほうをとりました。それでも、最後の最後でうっかり油断してやられてしまいました。高山病になるまでは快適だったので、ほんとうに惜しかったです。頂上が見えても油断は禁物でした。みなさんも、気を付けてください!

富士登山前の「?」を振り返る 荷物編

8月3日にはじめて富士登山に挑戦しました。途中から高山病っぽい症状があらわれ大変でしたが、真夜中の星空と雲海はとてもきれいで今も忘れられません。

今日から数回にわけて、富士登山の体験について投稿していこうと思います。内容は主に自分が調べても事前にイメージが掴めずに困ったこと、実際に登って感じたことについてです。これから登る方に、体験談として読んでいただけたら幸いです。

今日は荷物について書いてみます。荷造り中一番悩んだのが、登山中の服装をどうすればよいかでした。なのでそのあたりのことと、持っていった荷物のなかで持っていってよかった、持っていけばよかったと感じたものについて書いてみます。

服装云々の前に…

まず服装は、登山期間中のいつなのかと登っている時間によって変わるので、そのあたりのことを先に。まず旅程は8月3日昼~4日の一泊二日です。天気はともに快晴、気象庁の頂上の気温データは次のような日に登りました。

3日:平均気温8.5度、最高気温12.4度、最低気温5.6度
4日:平均気温7.4度、最高気温13.3度、最低気温5.5度
8月の気温を見ると比較的高い方です

吉田口ルートを選択し、宿は7合目の日の出館に泊まりました。2日目は深夜0時半過ぎに出発、5時少し前に9合目でご来光を望み、5時半頃山頂に到着、9時過ぎに下山開始、14時過ぎに5合目に戻るという感じでした。

持っていった服と場所ごとの服装

服を脱いだり来たりした場所はおおよそです。

8/3 14:05~ 6合目~7合目まで
半袖+アームカバー

8/4 0:40~ 7合目出発
半袖+フリース、ニット帽

3:00頃~ 8合目付近~頂上まで
長袖シャツ+半袖(長袖の上に)+フリース+薄手のナイロンパーカー(ユニクロのポケッタブルパーカー)+(途中から)ユニクロのウルトラダウン

5:30~6:00頃 頂上~下山開始前まで
はじめは寒いので上の通りの全装備→日差しが出るなかお鉢巡りをしながら少し薄手に

9:40~ 下山開始~下山まで
長袖シャツ+半袖(長袖の上に)+ユニクロのポケッタブルパーカー→途中から長袖シャツ+半袖 OR 半袖+アームカバー (ごめんなさい、ここだけ記憶があいまいです)

*下は全旅程サポートタイツ+登山用長ズボンを着用。手袋、ハット(日中)も使用

あってよかったもの、あればよかったもの

便利だったもの

潰れやすいペットボトルに入った水
「いろはす」や「南アルプスの天然水」などです。潰し切ったところでキャップを閉めれば手のひらに収まるサイズになり、リュックに余裕がなかったのでとても便利でした。おすすめです。

ドライフルーツ
行動食として飴、チョコより重宝しました。疲れた体は自然な甘さを欲し、すごくおいしく感じました。私はレーズンを、一緒に登った友達は清美オレンジを持っていきました。レーズンは疲れていても、袋を開ければパクパクつまめ勝手がよく、清美オレンジはクエン酸も含まれていて疲労回復効果も期待できよかったです。

「プルンと蒟蒻ゼリー」などのゼリー食
人によるのかもしれないですが、行動食として何か食べたくなっても、チョコ、飴といった固形のものはあまり食べたくなりませんでした。代わりにゼリーや、小さなパウチパックに入ったスムージーなど、スルスル食べられるものを食べたくなりました。

耳栓
山小屋で仮眠をとるとき、あってよかったです。私たちの隣では袋をずっとカサカサやっている人、いびきがすごい人が入れ替わりでいました。「いらんかもなあ」と思いながら持ってきたのですが、持ってきてよかった。いびきの音が大きすぎて眠れなかったのですが、耳栓をしたらほんの少しだけ眠ることができました。

登山本のキンドル版をスマホアプリで
万が一何かあったときのために、登山本のキンドル版を1冊購入し、スマホのアプリにダウンロードしておきました。万が一はなかったですが、スマホをポケットに入れておいてコースタイムをさっと確認したり、ルートの確認を山小屋でできたりと重宝しました。「登れる! 富士山 山登りABC」という本を利用しましたが、実用的でよかったです。富士登山前の情報収集の1冊としても、おすすめです。

ちなみに持っていったものはこんな感じでした。

これを持っていけばよかった

マスク
下りが砂ぼこりがすごいので、持っていけばよかったです。体験談で読んでいたのに、忘れてしまいました…。

本格的なサンマスク
登山前日、顔の側面を日焼けから守るカバーのようなものを買いました。目だけしか見えない本格的なサンマスクとどちらにしようか迷ったのですが、ここまでしたらやりすぎか、浮くか…と少し心配になりやめました。しかし、やめなきゃよかった…。高所の日差しは強く、登山翌日に鼻の皮はむけてしまいました。しかも案外、目しか見えない登山者もそこそこいた…。あくまでそこそこ程度で、いっぱいはいませんでしたけど…。もし浮かないかしらと迷っている人がいたら、案外大丈夫そうですよと伝えたいです。

2枚目の手袋
手袋2枚を推している人が他にいないか調べたのですが、サラッと調べた限りいませんでした…。なので、こんな体験をした人もいるんだなあ程度の、参考情報として読んでいただければ。手袋は、メリノウールのものを終始着用していました。真夜中、8合目くらいまでは問題はなかったのですが、9合目くらいから手袋1枚では手が冷えてしまいました。頂上の売店で軍手が売っていたので購入して、メリノウールの上から二重で使用して冷えはおさまりました。500円もしたので、持っていけばよかったなあと感じています。

絆創膏などの救急セット
今回は使うことはなかったけれど、持っていないと少し不安でした。

さいごに

22Lのリュックで行きました。旅行時の荷物の少なさでは自信があったので(?)、22Lでも大丈夫だろうと踏んでいたのですが、今回はかなりリュックと格闘しました。防寒具がスペースをとってとって。そのためとにかく荷物を減らしたくて…。本に書かれているものが本当にすべて必要か、ネットで各合目での気温を検索したり、雑誌や本の登山者の写真に目を凝らしたりもしました。でも頂上以外の気温はわからず、写真も何合目にいるかがわからないので役に立たないことが発覚…。なので小さい温度計を買って、実際の服と照らし合わせた投稿をしよう! と思っていたのですが、温度計を買うのを忘れてしまった…。なので事実の部分はない、ただの体験談になりました。

でも一つだけ言えたのは、本に書いてあるものは全部必要だったということ。頂上に近づくにつれて、寒くて寒くて。ニットなんていらんだろと思っていたけど、いりました。富士登山の本、雑誌は何冊も読んだのですが、読んだ中では上でも紹介した「登れる! 富士山山登りABC」という本が一番、各合目ごとの具体的な服装を説明してくれてあり便利でした。今照らしてみても、似たような服装をしています。はじめから疑わなきゃよかった…。

次回は、登山時間が読めず困ったので、そのことを書いてみようと思います。読んでくださってありがとうございます。

出あえてよかった1冊『私とは何か 「個人」から「分人」へ』/平野啓一郎

「この本に出あって人生が変わりました!」

私は今までそんな本に出あったことがありませんでした。でも、今回の本は「人生を変える」は大げさですが、今のところ人生で一番ものの見方を変えてくれた本です。

かつて私は「本当の自分」を探そうとするも最終的には混乱し、自分にうまく肯定感を抱けず苦しんでいました(後者は現在も格闘中だけど…)。本には当時の私の苦悩と重なる話も多く出てきて、それらに対する新しいものの見方を「分人」という形で提案していました。

はじめは馴染みのない発想でしたが、読み終わる頃にはずいぶん気が楽になりました。「分人」という発想を通じて、過去の自分が肯定されたような感覚になり、新しいツールを手に入れたような気持ちになったのです。「もっと早く知ることができていたらなあ」と思いました。

今日は救われた一冊について、感じていることを書いてみたいと思います。

嫌いな自分を肯定するには? 自分らしさはどう生まれるのか? 他者との距離をいかに取るか? 恋愛・職場・家族……人間関係に悩むすべての人へ。小説と格闘する中で生まれた、目からウロコの人間観!

…というのがAmazonの紹介文です。で、どうすればいいの? という話ですが「分人主義」を導入することを著者は提案します。

よく自分のなかでひとつの確固とした「本当の自分」があるみたいに言われます。でも著者は「本当の自分」など存在しない、あるのは対人関係ごとに生まれる自分だけと主張します。中学時代の友達、大学時代の友達、会社の同僚、会社の同期という具合に様々な人間関係が存在し、人はそのつきあいごとに異なった顔を見せます。その対人関係ごとに生まれる自分=「分人」と定義し、「私」の分人は対人関係の数だけの存在するというのが本旨です。本では分人という考え方を導入し、恋愛、仕事、家族、様々な分野を改めて見つめていきます。

「好きな分人が一つでも二つでもあれば、そこを足場に生きていけばいい」

この言葉に一番救われました。こんな流れの文章の一節です。

 人は、なかなか、自分の全部が好きだとは言えない。しかし、誰それといる時の自分(分人)は好きだとは、意外と言えるのではないだろうか? 逆に、別の誰それといる時の自分は嫌いだとも。そうして、もし、好きな分人が一つでも二つでもあれば、そこを足場に生きていけばいい。
 それは、生きた人間でなくてもかまわない。私はボードレールの詩を読んだり、森鴎外の小説を読んだりしている時の自分は嫌いじゃなかった。人生について、深く考えられたし、美しい言葉に導かれて、自分より広い世界と繋がっているように感じられた。そこが、自分を肯定するための入口だった。
(前略)誰かといる時の分人が好き、という考え方は、必ず一度、他者を経由している。自分を愛するためには、他社の存在が不可欠だという、その逆説こそが、分人主義の自己肯定の最も重要な点である。(中略)
そうして好きな分人が一つずつ増えていくなら、私たちは、その分、自分に肯定的になれる。否定したい自己があったとしても、自分の全体を自殺というかたちで消滅させることを考えずに済むはずだ。

はじめに自分の自己肯定感が低かったと触れました。私の場合の原因は、中学・高校時代にクラスの雰囲気に馴染めなかったことにあった気がします。どこか自分を否定された感覚がして、自信がどんどん持てなくなってしまう。状況は改善するけれど、苦い記憶は残ります。

「ダメな自分」がいつも頭に先に浮かんで、自己を否定し自己評価の低い自分ができあがる。焦点を当てるのはいつも暗い部分。いいことよりネガティブなことに目が行くので状況は改善しない…。

でも「好きな分人を足場にすればいい」という内容を読んで、「そうかあ」と思えました。今読むと「好きな自分を活かす」というのは当たり前に感じるのですが、当時はあまりにもダメな自分を足場にしてしまって、その発想自体がなかったのです。思考は「ダメな自分を直さないと」から始まっていたのです。

このとらえ方を知ってからは、肯定できる分人ができたので過去のとらえ方がフラットになりました。自分を思いっきり分けることが、それを可能にしたのだと思います。かなり「分人」というものの見方に救われました。

「本当の自分」を探そうとすればするほど、自分がわからなくなる。自分に肯定感を持ちたくて、楽しく日々を過ごしたくても、一部のうまくいかない人間関係を思い出すと、目の前にすると、そう思えなくなる。もし目の前にそんな状況があるのなら、この本を読んでみることも一つの選択だと思います。

もしかしたら読んだそのときが、その本の内容を活かすタイミングではないかもしれない。ただ、今までの思考でうまくいかないのならば、頭の片隅に残しておいて損はない発想だと感じます。

いろんなジャンルの本を読み始めて感じること

文章術の本を読んでいるとよく「手当たり次第に本を読みなさい」という言葉に出くわします。

半年前に何度も同じ言葉に出あい、そのことがきっかけで、今は過去の自分からは考えないほど様々なジャンルの本を読むようになりました。この読書法を始めて半年がたち、文章力が向上したかというと「うーん」と思います。ただ、最近はいい意味で本との接し方が変わったなあと感じています。

「手当たり次第の読書」を始める前は、なぜ手当たり次第読むことがよいのか理由がいまいち理解できませんでした。そこで自分の当時の疑問に答える形で、(文章力のことは置いておいて)少しずつ感じ始めた変化・効果について書いてみたいと思います。もし私と同じように「なんで手当たり次第がいいんだ?」と思った方がいたら、その一つのケーススタディとして読んでもらえたら幸いです。

変わってきたこと

本のジャンルごとの境界線があいまいになった
本が身近な存在になり、よく本を読むようになった

私が半年で読んだ分野をまとめると、小説、エッセイ、自己啓発、新書、人文、実用書が含まれると思います。本には様々なジャンルがありますが、私の中でそれぞれは大きく独立していました。ほとんど小説と自己啓発の間の本を行き来するくらいで、他の分野の本を読むのは少しハードルが高かったです。

それがいろんなジャンルの本を読み始めるにつれて、個々のジャンルの境界があいまいになりました。「本」という一つのくくりだけになって、何のジャンルかはさほど大切ではなく、タイトル、表紙に惹かれたら手を伸ばすようになりました。それを繰り返していくと、様々なジャンルに関心が持てるようになり、結果的に本を読む量が増えてきました。

本の言葉に救われることが増えた
本を読み返すようになった

新書やエッセイなど、著者の主張が書かれている本を読めば、「そういう考え方をすればいいのか」「そう考えるのか」と新しいとらえ方を発見することが多いです。対して、小説を読めば、「あ、こんな風に感じているの私だけじゃないんだ」という「そっか、よかった」とほっとする機会が多い。

本を読む量が増えると同時に、気持ちの部分、思考の部分で「ああ、あの一節よかったよなあ」という言葉が増えてきました。そしてそれらは、落ち込んだとき、物事を考え直したいときの自分を支える言葉になり、何度も本を読み返すようになりました。今までは本を読み返すことなんてほとんどなくて、「この本に救われました!」みたいな言葉が理解できなかったのに…。

頭のなかのいろんな部分が刺激される 

新書ならば論理性、小説やエッセイならば感受性がされ、それが楽しくて心地よいです。食事をするとき炭水化物の選択肢が、ご飯、パン、麺、いもとあるような感じと少し似ている気がします(違うか…)。ずっとごはんを食べ続けていると飽きてきてしまうけれど、気分に合わせて違うものを選んで楽しむ。そうすることで気持ちを切り替え、それぞれもより楽しんでいける感じみたいな…。

楽しいことが連鎖し、もっと本を読むようになる

現在の効果は「本をよく読むようになった」です。1つのとっかかりが別のとっかかりを導き、その輪がどんどん広がっていく。いいことがどんどん連鎖していく感じです。

でも、もし文章術と関連したことを何か入れるとしたら、文章が前よりスラスラ出てくるようになった気がします。人の言葉でいいなと思った表現を、自然に借りている感じがあります。そのため、このやり方を繰り返していくと意図しなくても、文が自然に出てくる状態になってくるのかなあと感じます。

ところで、私にとって文章術のバイブルのような本に辰濃和男さんの「文章のみがき方」という本があります。そのなかで乱読が薦められているのですが、読み返してみるとこんな風に書いてありました。

異質の本を読むことで、私たちは第一に自分の世界をひろげることができます。
第二に、未知の世界に出あうことで脳の働きに刺激を与えることができます。

自分に起こった変化は辰濃さんの本を読む前に考えたのですが、まさに書かれている変化が起こっている! と驚きました。本の内容から理解するのもいいですが、やっぱり自分で体得したものはまた格別ですね。

果たして文章力向上に、手当たり次第読書法は効果があるのか。その効果のほどは今の私にはわかりません。だけど、辰濃さんの言葉を借りれば本当に世界が広がりました。もっと早く、いろんな本を読んでいればよかったなあと感じています。もし手当たり次第の読書、乱読に興味がある方は、是非試してほしいと思います。

又吉直樹著『劇場』を読んで

又吉さんの『劇場』を読んだので、その感想を書いてみようと思います。先日感想文を書いた『火花』同様、ネタバレが含まれます。もし内容を知りたくない人は、戻るボタンを押してください!

いいですかね。

紹介文はいつものようにAmazonから引用させてもらいます。

演劇を通して世界に立ち向かう永田と、その恋人の沙希。夢を抱いてやってきた東京で、ふたりは出会った――。『火花』より先に書き始めていた又吉直樹の作家としての原点にして、書かずにはいられなかった、たったひとつの不器用な恋。夢と現実のはざまでもがきながら、かけがえのない大切な誰かを想う、切なくも胸にせまる恋愛小説。

本を読んだ直後は、心はどんより、ずっしり重くなりました。理由は主人公、永田のありかたにあったと思います。永田はある意味で、自分自身の価値観に苦しんでいるように見えました。それが自分に対する自信のなさ、他人への嫉妬から来るものなのか、人に受け入れられないことから来るものなのかわかりません。ただ他と交わらず、他を認めようとしない姿勢が、彼自身をより一層苦しめ、更に自分を甘やかしている姿勢にも結局は苦しんでいたような気がします。

私がどんよりしてしまった理由は、自分と重なるものがたくさん見えたからだと思います。自分に甘く、それで結局自分が苦しみ、自分のありかたに苦しんでいく姿。読みながらどんどん主人公、もしくは自分にうんざりしていってしまいました。

そんな感じで気持ちがあまりにどんよりしていたので、正直今回は感想文を書きたいとも思えませんでした。でも、どうしても前回『火花』を読んで感じたことを考えると、「どんより」を目的とした小説には思えませんでした。

そこで、パラパラと印象に残った箇所を読み返してみました。すると「どんより」以外の自分が惹かれた場面を少しずつ思い出してきました。そうやって読み直したあと浮かんできた言葉はなぜか「多面体」でした。

例えば、作中の永田の純粋な言葉にハッとさせられました。永田が主宰している劇団の元劇団員が小説を出版したときのことです。2人の関係性は良好とは言えず、お互いを強烈にメールで罵り合い、永田は元劇団員の小説をボロカスに言います。現実世界での出来事だったらもう一生会うことはおろか、連絡すらとらないような内容でした。それでもあるきっかけで2人は再会し、永田は自分が送ったメールの内容を一部撤回、謝罪し、再度読み直すと言い始めます。永田はこんな風に言っています。

「いや、絶対読む。本当に申し訳ない。でもこれだけは言わせて。なんでもかんでも笑い飛ばす必要なんてないから。しんどいことは、しんどいでええし。最終的に笑えたら良いと思ってるから」

普通にいい言葉だなあと思いました。永田はいろいろとねじ曲がったところがあるので、それだけに「そうかあ」と思いました。

そんな風に少し見方を変えてみると、作中初期の沙希と永田のやり取りでいいなあと思ったところもあったなあと思い出します。たとえばこんなやり取り。

「ねえ、空に向かってガム吐いたことある?」

勝ち誇った顔で僕を見上げる沙希の髪からは良い匂いがしていた。

「ないよ」

「すごい怖いよ。上から落ちてくるからね」

沙希は嬉しそうに言った。

「あたりまえやん。でも六年生になるまでガムは全部のみこんでた」

「だめじゃん」

「ええねん」

およそどうでもいいような会話を繰り返しながら、歩き続けた。こういう時間が僕は好きだった。

なんかあったかいなあ、と。でも、そうかと思うと「この人ほんとに沙希と一緒にいたいんかな」と思う描写もでてきたりします。沙希を大切に思う感じは作中から感じとれるのだけど、内面で思っていることと、外に出てくる態度がチグハグに感じることも多かったです。話が進むにつれて沙希とのやり取りを見ていると、「永田、どうしたいんだ?!」ともどかしい気持ちになっていきました。

ある場面でこんな言葉がありました。

沙希が日常で見せる、あらゆる感情がない交ぜになった表情。発する言葉とは矛盾する感情の気配が表情から読み取れることがあった。ああいう迷いのようなものを排除して一貫した思考を持つ登場人物が存在してもいいのかもしれないけれど、迷いを抱えたまま動く人間の面白さのようなものを表現できないだろうかと考えていた。

これは永田が今後の作品について考えているとき、沙希の表情を思い出しながら思ったことです。でも、私はこの表現が永田に当てはまるような気がしました。すべてがまっすぐにつながってはおらず、いろいろな要素が混じり合い、葛藤を抱え、恋人に当たり、迷いながら生きていく姿、という意味で。

正直、喜々として読めた小説ではなかったし、永田に好感が持てたとは言い難いです。ただ、バッサリと否定ができるかというとできないなあと思います。沙希に対する永田の感じ方で好きなところもあったし、自分と重なるところもたくさんありました。

本作を読んで感じたことがあります。それは、私は言動に一貫性があって、前に向かって進むこと=「よし」としていたなあということ。もちろんそれができるならそれに越したことはないけれども、果たしてそこまで人は本当に整合性がとれているだろうか、もしくは整合性のとれた生き方だけが答えなのだろうか、と今回の作品を読んでぼんやりと考えてしまいました。

正直、又吉さんの著書じゃなかったら、今回の感想は抱いてないんじゃないかなあと感じています。「又吉さんが書いたものだから」という部分が確実に反映して上の感想になっている気がします。それを思うと「うーん、いいのかなあそれで」と感じてしまいます。難しいところです。

息苦しさを感じるところも多かったです。でも最後にぼんやりと思ったことを考えると、それだけで一つ大きな収穫だったなあと思います。